2022年5月23日 月曜日 快晴 16-23℃
今日の越前市の日蓮宗お寺巡りは、下の地図でA区域。
まず、A区域の左手で離れて建つ2ヶ寺は、左が成福寺でその右が妙行寺。
次に、その右手の市街地には8ケ寺が群集している。その箇所を拡大すると...
上から順に、妙国寺、栄久寺(この2寺は隣接している)、経王寺、妙唱寺、蓮尚寺、妙高寺、妙智寺、本行寺。
巡る順序は、まず市街地の8ケ寺を巡り、その後で左手の2ケ寺を回る予定。
天気予報では北北西の風が2〜4m。帰路は向かい風になりそう...
9時発。福井市から鯖江市まではいつもの旧街道の北陸道(歴史の道)を利用。
よく走る街道なのに、今回水落を通って初めて気付いたが、水落は旧宿場町だったようだ。
鯖江市からは高専の後ろの日野川堤防沿いに走り、家久の方へ向かう。
県道188号線を福武線に沿って走ります。家久、スポーツ公園、北府などの駅を左手に見ながら走り、旧武生市街地に入る。
ここは『尾花新地』と呼ばれた遊郭が存在していた。現在は越前市桂町という名称。広い路地とそれを二分する用水路が路の真ん中を流れ、水路に沿って松並木が続いている。
寺町通に入ると天満宮が、その向かい側には国分寺がある。
寺町通を西の方に向かって進むと、突き当たりには大きな引接寺が見える。
引接寺は以前にお参りしたこともあり、日蓮宗のお寺ではないので今回はお参りはしない。
引接寺に到達するまでの手前左手に、妙国寺と栄久寺が隣接して建っている。
栄久寺から先にお参りする。
栄久寺は、大永5年(1525年)越前府中に創立。開山経王院日要は、京都本山妙覚等の学頭として京都での天文法難を前後とし、布教宣戦拡大の為に越前の中心地府中に堂字を建立した。
日像菩薩御作とされる日蓮大聖人御木造を奉安し、室町・江戸期より大いなる庶民信仰の中心となり、俗称『厄除けの祖師・一木三体の祖師』とも言われる。
嘉永五年(1853年)武生の大火で類焼。諸堂及び記録等をことごとく失ったが、厄除け祖師像のみ残る。23世日存より復旧事業が進み、24世日慶が明治19年本堂を再建。現在に至る。
次は隣の妙国寺へ。
妙国寺は、応仁元年(1467年)創立。開基檀越宗林居士・開山日東聖人は、当山に居住すること5年、文明3年に(1471年)に、弟子「清般」に寺を譲り、行化の旅に出、三重県伊賀上野に上行寺を建立。
第5世宗日恵上人は、慶長の頃、隣接の真言宗一乗坊を改宗せレめ、妙国寺塔頭一乗寺としたが、時の推移とともに荒廃し、寛永年中に一乗寺住持・梅信院日満上人が万部塔を建立、寺を廃して 当山に合併した。
本堂は開山上人が応仁元年に堂字を建立したが、宝暦12年(1762年)の類焼、嘉永5年(1852年)には武生大火で再度類焼、20世日詠上人が文久2年(1862年)再建に着手し、明治10年に完成。現在に至る。
寺町通りを退いて、総社通りを走る。
総社のお参りは、時間があまりないので割愛。
経王寺に到着。
経王寺は、永仁2年(1294年)、北陸弘通の祖「龍華樹院日像菩薩」を開山して一乗谷に創建され、越前太守朝倉家の庇護を蒙り菩提所として権威を誇る。その後、朝倉家滅亡により、天正3年(1575年)前田利家公府中在城の折、現在地に堂字を建立。
嘉永法歴の府中大火にて本堂などは焼失したが、慶応4年(1868年)、本堂・表門の書院等を再建、現在に至る。
次は、タンス通りを走って妙唱寺へ向かう。
孫に買ってやりたいような木製のおもちゃも売っている。
妙唱寺へは細い路地から入って行く。
妙唱寺は寛文6年(1661年)の創立。開山は経王寺6世日鷲。2世妙久の代に妙顕寺より庵号を授与せられ妙唱庵と号す。
昭和30年に妙見堂を建立す。同34年に経栄山妙唱寺と寺号を公称す。
尼さんのお寺らしく、お庭をきれいに手入れしている。
次は、蓮尚寺へ。
蓮尚寺は、応永年間(1394-1427年)の創立。戦国大名朝倉家の庇護のもと足羽郡一乗谷にあった。当時上杉謙信の兄長尾晴景は失脚し、その子昌景は越後をのがれ朝倉家に仕えたが、その3世の孫宗賢は主家没落後府中に至り、本多家に仕え、天正年間(1573-1585年)、正法院日林を開山として、現在の地に蓮尚寺(日蓮宗)を再興した。
その後宝歴12年(1762年)、嘉永5年(1852年)の再度の大火に類焼し、現在の本堂は明治12年の建立である。
ここから次の妙高寺へ向かう途中に「卍が辻」がある。
ここで、途中のコンビニで買ったおむすびを食べて一休みする...
妙高寺に来た。
妙高寺は嘉吉3年(1443年)、久遠成院日親聖人開基の寺。日親聖人は宗門史上、最も迫害を受けた僧で、幕府に立正治国論を建白した人でも知られている。
上人が佐渡巡拝の時、当地の桑野源左エ門は上人の熱烈なる法を聞き改宗、一子を投じて弟子となし、この寺を創建した。
桑野家は、江戸時代には福井藩の両替業務に携わり、町の総代も務めている。
境内の北側には八木翁の顕徳碑が立っているが、本多家の家臣で明治2年の凶作で貧民の救助にあたり、金や米を貸し与えたが、貧民たちが返済のできない事を知り、證書を火に投じ、自らその責任を取り自刃した。
次は、妙智寺へ。
妙智寺は永仁2年(1294年)、日像上人により創建されたといわれる。本尊は久遠実成釈迦牟尼仏である。本堂には、霊山帰子育鬼子母神も祀られており、また水子観世音菩薩も安置されている。
枷藍は、承応年間(1652〜55年)の祝融により、宝物・書類など一切が烏有に帰したといわれる。その後本堂などは再建されたが、庚申町より出火した嘉永5年(1852年)3月の府中大火に遭い、再びすべてが焼失したという。
最後の本行寺は妙智寺のすぐ隣にある。
本行寺は、もとは真言宗。日蓮大聖人の孫弟子日像聖人開基の寺院。日像聖人は永仁2年(1294年) 2月『京都にお題目を広めよ』との日蓮大聖人の遺言を果さんが為、佐渡より北陸路を通り京都上洛の途であった。
かねてより日像聖人の名声を聞き及んでいた時の住僧(真言宗時代の住職)は、早速法論を行うも遂に敗して聖人に帰伏す。そしてその教えと人格にうたれ、直ちに聖人の弟子となり、名を「府南坊日了律師」と改め、聖人を当山開基と仰ぎ、己は二祖に座す。
境内には「日像聖人染筆岩題目」がある。
碑にかかれた説明によると...「この岩題目は 旧武生市小野町山中の山肌に刻書されていたものを 小野町ダム水没化に伴い 当地に移転建立するものなり」
...
市街地の8ケ寺のお参りが済んで、次は西に向かう。
茶臼山の麓にある妙行寺に到着。
妙行寺は永仁2年(1294年)の創立。もとは真言宗の寺であったが、ときの住僧本要律師が日像菩薩に教化されて改宗。法論の際、腰をかけられたと伝えられる御休息問答石がある。
隣には、白山神社。
最後の成福寺までは、さらに西の方へ大虫町までしばらく走行する。
成福寺は明応8年(1499年)に真言宗から現在の日蓮宗に改宗した。初代開山の智勝院日成和尚が19歳の時、京都の妙顕寺から派遣された僧と成福寺において三日三晩の問答の結果遂に改宗されたとの記録がある。その後500年間、34世に至る今日まで法燈連綿と維持されている。
境内の中に三十番神堂が立っているので、覗いてみることにする。
中を覗いていると、幸いお寺のご上人が来られて扉を開けていただき、説明していただけた。
三十蕃神(さんじゅうばんしん)は、神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。
最澄が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代に盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神(法華神道)とされた。
蕃神堂の三十蕃神は、南越前町の秀香寺にも小さなお堂があり、中の番神を自由に拝観することができたように記憶している。
帰りはひたすら福井に向かって広域農道(県道28号)を走り、ホームセンターヤマギシのあたりから丹南サイクリングロードに入って帰路につく。
走行距離は55.7km、バッテリーは50%残。
あ、疲れた。