日蓮宗お寺巡りサイクリング 7(越前市D)
2022年5月7日 土曜日 晴れのち曇り 14-27℃
今日の越前市の日蓮宗お寺巡りはD区です。下の地図で見るようにこの区域には2ケ寺あり、右が掟光寺、左が妙勧寺。この順で訪問する予定。
福井市内の自宅から掟光寺までは約30kmあり、ちょっとハードなサイクリングになりそうだ。
自宅の福井市からは旧街道の北陸道(北国街道)で鯖江市の方へ向かう。
浅水あたりまでくると左手に文殊山が見えてきた。今日は空気が澄んでいるようで、よく見える。
西鯖江の駅でトイレ休憩。
駅のそばには前からフオーを食べに行きたいと思っているベトナム料理店がある。そばを通り過ぎたらスープの準備をしているようで、良い匂いが漂ってきたー。
鯖江市からは日野川の東側を通って越前市に入る。
今日は暑い!木陰に入って時々給水休憩をとって... 熱中症にならないようにしないと。
県道136号線を走って、ようやく松ケ鼻トンネルまで。目指すお寺はもうすぐ。
中平吹(なかひらぶき)町に入って、掟光寺に到着。ここまで27.6km。
山号はなんかユニークな名称である。
このお寺の歴史は興味深い...。
掟光寺は元は真言宗のお寺で日野山の中腹にあった。1573年、真言宗の僧雑明(ぞうみょう)の時、中平吹町の三田村七エ右衛門家より出家した千如院日栄上人との法論問答の結果、日蓮宗に改宗することになった。
ちょうどこの頃、1572年まで佐々布光林坊一族が居城している平吹城があったが、一向一揆の軍勢により焼き討ちに遭い焼失した。
そこで光林坊と縁者であった千如院日栄上人がこの地に寺地を移し、雑明山浄光寺と号して千如院日栄上人を開基開山としたのが始まりである。
お城の跡地に建てたため、境内には土塁や庭園がのこり当時の面影をしのぶことができる。
1598年の太閤検地の時、役人が長期滞在した折、そのお礼として寺院ゆかりの光林坊掟運、掟俊の「掟」の字と光林坊の「光」の字を取り「掟光寺」と改めた。当時「掟」の字は、一般に使用禁止で御法度であったにも拘らず、検地役人に使用を特別に許された。
「掟光寺」という名称は日本中で唯一この寺だけが有する寺号である。
過去2度落雷によって焼失し、現在の本堂は約200年前、第26世本地院日透上人の時に再建された。
途中のコンビニで買ったおにぎりを頬張って昼食。火野正平さんたちのランチとは違って質素だ...
お寺には住職も誰も常駐していないようだが、お手洗いは利用できた。
掟光寺の向かいに小さい寂れたお寺がある。
お寺の縁側におばあさんが座っていたので、話を聞くことにする。
「このお寺は何ですか」--「これは、アンデラや」アンデラ???
「おばあさんはお寺の人ですか?」-- 「私はここを借りてるだけや」
「昔、このあたりにはお城があったのでしょ?」--「昔のことは知らん」
後で知ったのですが、アンデラというのは「尼寺」のことだった。
次のお寺の妙勧寺へ向かう。掟光寺からすぐ。
このお寺も歴史を調べると由緒がありそう。
妙勧寺の創建は永仁2年(1294年)。日像上人が上洛の途次、疫病で苦しむ今宿村村民は北紺屋小兵衛の要請を受けた日像上人の祈祷により全快し、全村あげて真言宗より日蓮宗に改宗。
日像の弟子妙文がこの地に堂宇を建立し現在の寺号を公称した。永正3年(1506年)、14世日住の代に守護職朝倉貞景が寺領10石を寄進し、天文14年(1545年)朝倉孝景の頃には殺生禁断の制札を立てるほどに寺運が興盛した。
慶長3年(1598年)には豊臣秀吉より境内地900坪を寺領と定められた。確かに、境内はかなり広い。
すぐ左隣には日吉神社が建っている。神仏習合がまだ残っているような雰囲気である。
正徳2年(1712年) 29世日閑が中興となって、境内を拡張し本堂を再建、その後30世が客殿庫裏を再建され寺観が整えられた。
日像菩薩四箇聖跡(妙顕寺四箇聖跡)の一つに列し龍華別院と称する。
境内も静かで落ち着くお寺である。
帰りは、日野川河川敷サイクリンロードなどを利用して帰路についた。
白鬼女橋の近くの橋の上で、二人の撮り鉄の男の子がカメラを構えている...。横の鉄橋の上をそろそろ電車が通過するようだ。私も真似して...パチリ.... ちょっとタイミングは早かった。
江端川水門まで来て、ちょっと一休み。
心地よい風が吹く堤防に座って...
14:50帰宅。走行距離60.7km。バッテリー消耗は60%ぐらい。
コメント